Jちゃん
いつも
きれいなお花を
ありがとう
萩の桜も満開ですね
いいなぁ...
送別の宴か、
今宵はたくさんの団体の酔客達が
街を歩いていた。
なんにせよ、
普段の夜が静かなこの町だけに
個人的には喜ばしい光景だ。
賑やかになるべき場所は
やはりいつも賑わっていてほしいものだ。
ところで、
春、特に3月のこの時期は
別れを連想させる季節。
別れ。なんとも悲しい響き。
去ってゆく友、去らなければならない自分。
慣れ親しんだ場所との別れ。
もう会えないかもしれない知人。
でも、どうして
“別れること”に対して
人は悲しみと言う感情を持つようになったのだろう。
この疑問、わかり難いかな。
当然、私も別れは悲しい。
別れた後のそれぞれの生活が
絶対に悲惨なものになる、とは限らないのならば
喜ばしい、という感情になっても良いんじゃないか、
という気がする。
確かに、口では
新天地へ旅立つ者へ
「良かった、がんばれ」と言う事があるが
大抵の場合、心では会えなくなる悲しさでいっぱいのはず。
心から「嬉しい」と思えないものか・・・
考えると、
別れる=悲しみの前提には
“執着”という自己愛の一つの形があるように思えてならない。
その人と会えなくなると、
寂しくなり、不安になるという自分本位の感情の表れじゃないか。
・・・・・・・・・・
ん?
「だからどうした?」という文章になってきた。
オチがない。
夜遅い、いや朝早いからか
くだらん内容になりつつあるな。
眠くて頭の中が暴走してるようだ。
この件は
また落ち着いて考えよう。
昨夜、深夜2時過ぎ、丑の刻。
仕事から帰宅し、
真っ暗な車庫で時間を確認しようと
携帯を取り出した。
“あれっ?”
なんか妙な感触。
二つ折りの携帯を開けた瞬間だ。
げ、折れてる。
真っ二つ。
画面側とボタン側、見事に違う物体になってる・・・
ちょっと凹んだ。
ま、しょうがない。
未来永劫なんて存在しない。
形あるものはいつか無くなる。
で、朝一で携帯屋さんに行ってきた。
明日の出張カフェは、
携帯を一新した勢いそのまま、
新たな気持ちでスッキリ行きます。
待ってます。
誰でも
未来を論ずることがある。
「我々は、こうしていくべきだ」
「彼はもっとこうしたほうが良い」
「こんな場所に住みたい」
「こういう人になりたい」
「こんな事をやってみたい」
そして、
あるグループがある時、
そのリーダーとなるべき者は
グループの未来を、進むべき道を示す場面が訪れる。
それは、より明確な、
みなが惹きつけられるような内容であるべきだ。
しかし、それは相当難しい。
自分の夢を語るときでも
自分がその存在さえも全く知らない世界を
夢に描くことはできない。
知識や経験がないほどに
その夢の世界は狭まる。
リーダーとなるべき者は
より広い知識とより多くの経験、
そして豊かな想像力が必要となる。
未来を語るにも能力がいるのだ。
高度なグループであればあるほど。
また、
低い志しか持たないリーダーは
それ以上を求めないから
知識を広める努力を怠る。
そんなリーダーの下では
グループのレベルも決まってくる。
つまり、
リーダーは貪欲な探究心も求められる。
リーダーの話ばかりになってしまっているが
個人個人も
自らの夢や可能性を広げたいなら
少しでも知識をつけたほうが良い。
選択肢を増やすことに
自ら制限を課す必要はない。
無駄な知識なんか
きっと無い。
自分に足りてない栄養は何か?
自分に足りてない知識は何か?
自分に足りてない経験は何か?
自分に足りてないセンスは何か?
自分に足りてない優しさは何か?
自分に足りてない配慮は何か?
自分に足りてない能力は何か?
自分に足りてない常識は何か?
自分の不足点を客観的に探し出すのは
なかなか難しい。
自己分析力は
どうやら、全く足りてないようです。